尼崎市の歴史
名前の由来
「尼崎」という名前は元々、現在の阪神尼崎駅から大物駅にかけての南側あたりの地名です。「尼」とは古代、中世においては漁民、海民をさす言葉で 「崎」とは岬にも通づる言葉で海に突き出た場所という意味になります。つまり漁民が住む海に突き出た場所というのが名前の由来になります。
中世~近世
平安時代から中世にかけての尼崎地域は様々な荘園が開発されました。尼崎は東を猪名川、西を武庫川が流れており、 流れが穏やかで人が住むことに適している場所の多い猪名川流域に比べて、土砂が多く荒れ気味だった武庫川流域でも 多くの荘園が開発されていました。また、南北朝期から戦国期にかけての騒乱の時代、尼崎地域は応仁・文明の乱をはじめとした数々の戦の戦場となりました。 戦国時代には尼崎城、富松乗、塚口城が築かれ、摂津地域の軍事拠点として重要な位置を占めていました。
近代~現代
明治維新によって尼崎藩はなくなり、尼崎城も廃城となりました。城下町は一時期活気を失いましたが、徐々に近代化が始まりました。 明治7年に官設鉄道が大阪・神戸間に開通し、明治24年に尼崎・伊丹間を結ぶ川辺馬車鉄道が開通しのちのJR宝塚線となりました。 このように交通網が次々に整えられていき、明治半ばから工業も発展していきました。明治22年の町村制施行時に小田・大庄・立花・武庫・園田という5か村が設置されました。 このうち尼崎町が、人口の増加や都市化の進展などにともなって、大正5年に尼崎市となりました。戦後の尼崎は、商店街の債権から始まりました。 落ち込んだ工業生産も、昭和25年の朝鮮戦争による特需景気によって、高度経済成長期にかけて更迭を中心とする工業都市尼崎が復活しました。
尼ロックについて
これは私個人の意見ですが、尼ロックは尼崎の小中学生が一度は行くことになるといっても過言ではない場所です。正式名称は尼崎閘門 といいます。主な役割としては河と海の境目の二重の門によって海側と陸地側の水位を調節することです。というのも尼崎は海抜0メートル地帯といって、 海の推移よりも陸地の高さが低い地域があります。そのため台風など二より発生する水害が致命的に被害をもたらすことも多々ありました。この尼ロックは 二つある水門を交互に開け閉めすることで、海から水が流れ込むことを防ぐという役割があります。
おわり
他の地域の人から聞く尼崎の印象は治安があまりよくないというの多いのですが、交通網も整ていて、非常に住みやすい街です。近くを通りかかったらいらしてみてください。